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悲しくて寂しい気持ちの理由がわかった

2012年3月5日、月曜日の朝。
よく見るあの夢からの目覚めでした。
ここ10年くらい頻繁に見る夢です。
やっとその夢の原因がわかったのです。
わかった気になってるだけかもしれません。
でも僕にとっては、胸のつかえが取れた様に感じる一瞬でした。

その夢の内容はいつもこんな感じです。

『宿題を提出しなくてはならないのに、自分だけ宿題が出来ていない』
『テスト当日なのに、何も勉強していなくて焦っている』
『集合場所に自分だけが遅れて行き、到着すると誰もいない』

これだけ聞くと、「学生時代のトラウマ?」って思う人が多数でしょう。
違うんです。そんな事は全く気にならない性格です。
むしろ「宿題なんか何もしてへんぞ。どうや!!」みたいなタイプですから。

しかしこの夢から目が覚めた時には心臓がドキドキしていて、
泣きたい様な、叫びたい様な、何とも不快な感じなんです。
そして気分がモヤモヤしたままで。
気持ちを現すなら、

「悲しくて寂しい」
躊躇なくそう言えます。

でも、今日からその夢は見なくなる気がします。
では、行きましょか。

■■■

先週の水曜日、2月29日の昼頃でした。
店内で作業している時に、うちの店の前に4〜6歳くらいの男の子と
そのお父さんとおぼしき30代の方がいたんです。
誰かと待ち合わせをしている様子でした。

子供さんを抱っこして笑顔になったお父さんの顔を見た瞬間、
僕の手は止まりました。

『 あれは....ひょっとして.....N田君?』

高校時代の同級生の面影があったんです。
だけど、同じクラスではなかったし部活も同じではなかったんです。
だけど、彼には嫌な印象は何ひとつ無く、仲良くしていた記憶はありました。

声を掛けようか迷ったんです。
僕の事を覚えてなかったら気まずいですしね。
うちのスタッフの協力もあって、
声を掛けるタイミングが出来たので、
思い切って聞いたんです。

「ひょっとして、通ってた高校は◯◯?N田君?」

そうでした。N田君でした。
N田君も僕を覚えていてくれました。
思わず抱きしめましたよ。妙に嬉しくって。
もう20年は会ってないはずです。
N田君は少し戸惑い気味でしたが、僕、そんなんどうでもエエんですよ。
ガンガンしゃべりまくりましたよ。懐かしくて懐かしくてね。

N田君はうちの店内を正面の窓ガラスから眺めながら、
「綺麗な店やなぁ。もう10年も?すごいなぁ。」
と言ってくれました。
ありがとう。

N田君はフレンチのシェフをやっているそうです。
僕も以前から知っている有名なレストランでした。
もう20年も料理の道を歩んで来たそうです。
「20年?すげぇな!!」
僕の10年なんて霞みますよね。(笑)

僕のド素人視点から発射される、答えるのもバカバカしい様な質問にも
N田君は高校時代の頃の様に爽やかに優しく答えてくれました。
その横顔には20年という時間で培った自信とプライドが浮かんでました。

「カッコいいなぁ」
素直にそう思いました。

お互いの共通の友人の話題をしている時に、N田君からI君の近況を聞きました。
I君と僕は小、中、高と同じで特に中学校の頃は、ほとんど毎日一緒に遊んでました。
I君は「軽トラックの社長」(つまり運送系?)をしているらしく、
一戸建ての家で奥さんと娘さん2人と暮らしているとの事でした。

I君とは高校生になると付き合いが無くなってしまったのですが、
19歳の頃、ばったり道で会って軽く会話をして別れたのが最後でした。
その彼の近況も知れて嬉しかったです。

N田君からは名刺を頂き、
「また今度、N田君の料理食べに行くわ!!」
と、約束して別れました。

この日の出来事がまさか、
冒頭に書いた僕の「悲しく寂しい感情」にアプローチして来るとは、
この時は微塵も思ってませんでした。

みなさん、人生ってわかりませんよね。
いつ、どこで、何が、どう作用するかなんて。

■■■

さぁ、続きですよ。

これまで自分の心の中に直視したくはない部分というか、
あまりそれについては考えたくない、
いや、考える必要なんてないんだと、
割り切ってしまった部分がありました。
言葉を重ねても複雑になるだけなので、ストレートに書きます。

『ひとつの事を長い期間、継続してやり遂げた事がない』
これです。

あくまでも僕個人の価値観に基づく事なので、
他の人からすれば「はぁ?そんな事?」って思われるかもしれませんね。
只、僕には結構大きなウエイトを占める事なんです。

フリーター時代 → 現在という時間の流れの中で
「人は人、自分は自分。色々と寄り道もすればエエねん。
俺みたいな人生もあるねん。人生はまさに旅そのもの!!」
と思っていました。

ところがフリーター時代から例の夢、
『宿題を提出しなくてはならないのに、自分だけ宿題が出来ていない』
『テスト当日なのに、何も勉強していなくて焦っている』
『集合場所に自分だけが遅れて行き、到着すると誰もいない』
これらの夢を頻繁に見ていました。

昨日3月5日に夢から目覚めた時にこの夢の理由がわかった気がしました。

僕の推測なんですが、
「人は人、自分は自分。俺みたいな人生もあるねん。」
という自分の思いは嘘だったのかもしれません。
自分に嘘をついて自分を騙していたのかもしれません。

本心は...

『会社員でも自由業でも何でもいいから、ひとつの事に対して
コツコツと努力を積み上げ、その結果(成果)で生きて行きたい。』

なのかもしれません。
しかし現実の自分はそれをしていない。して来なかった。
宿題をサボり続けてここまで来た。

宿題をサボっている事実に対し、
「人は人、自分は自分。俺みたいな人生もあるねん。」
と嘘の理由付けをして封印してしまった。

本心を叶えるだけの強さが無かった。
弱かった。弱虫だったのです。
自分の本心を満たすだけの強さが無いという事実から目を背けたかった。

3月5日、月曜日の朝にいつもの夢から目覚めた僕には、
夢に出て来る「宿題」というキーワードは自分にとって、
「コツコツと努力を積み上げる」
という事の象徴な気がしたのです。
何故、始めてそんな風に思えたか?

N田君と再会したからなんです。
N田君は僕にとってN田君では無く、
「宿題をキッチリとやって来た人間の象徴」
として僕には映ったんです。

自分の対極、自分の願望を実現している人、
なりたかった自分。

例の夢から目が覚めた後の、「悲しさ」「寂しさ」というものは、
「サボり続けた自分が無駄にした、取り返せない時間」
という現実への「悲しさ」であり、
「サボり続けている間に自分の本心とはかけ離れてしまった」
とうい現実への「寂しさ」であるような気がしたのです。

いつでも仕事はずっとしていたんですよ。サボってませんよ。(笑)
しかし、あらゆる対象に対して気持ちを込めて
コツコツと継続するという事はサボり続けて来ました。
だから、何も積み上がってません。

積み上げたものがあるからこそ、自信が生まれ、プライドが宿るんです。
積み上げたものがない僕には虚勢が生まれ、うぬぼれが宿っているんです。

「お、おい。バカ店主、大丈夫か?元気ないんちゃうか?」
そんな声が聞こえて来そうですね。

大丈夫です。
『バカ店主が一人で行く!!人生挽回ツアー』
のチケットを購入しました。

僕は考えました。
「おいおい、ちょっと待て。俺はそんなつまらん人間か?今から挽回したらエエやん。
野球で例えたらまだ5回表くらい。
今から1日1日を他人の3日分の濃さで生きたらエエねん。
社会、政治、経済、世界情勢、語学、健康等のあらゆる分野、
そう、自分が気になっているあらゆる分野をもっと勉強しよう。
自分の仕事をもっと盤石にするためにも、無駄な時間を削って「生き時間」を増やそう。
お客様に何度も足を運んでもらえる店になるために「快適さの追求」を続けよう etc...」

1日を他人の3日分生きると、
1年で3年分、
5年で15年分、
10年で30年分、
20年で60年分。

今現在、僕をリードしている人間に追いつき追い越すには十分です。
今現在、俺をリードしている人間をとらえ、抜き去り、置き去りにするには楽勝です。

■■■

3月5日の朝に目覚めた時、こんな夢の内容でした。

中学か高校の美術室で、
N田君との話題にもあがったI君が絵を乾かしているんです。
僕は尋ねます。

「それって、俺は提出せんでもエエんやろ?」
 I君はびっくりした顔で答えました。
「いや、これ全員が出さなアカンやつやで。」
「うそやん!!!」「ほんまやで!!」
「うそやん!!美術を選択した奴だけやろ??」
「違うって!!全員やで!!明日までやで!!」
「うそや〜ん!!!!どうしよ〜!!何もしてへ〜ん!!」

ここで目が覚めました。
でも、こういう夢を見る事は今後無い気がします。
一区切りついた気がするのです。

僕の心は晴れ晴れしています。
# by citronkobe | 2012-05-09 13:03
『 環境を変えたら..... 』
自分の持っている何かに対する能力が、
環境を変えた途端に急激に伸びる事ってあると思うんです。

僕ね、これを身を持って実感した事があるんです。
受験とか控えてる方や、何かを勉強中の方の参考になれば幸いです。

ほんなら、行きますよ。

小学校5年生の2学期くらいから学習塾に通い出したんです。
それも自分から行きたいと望んで通い出したんです。
理由は「いつまでも成績の悪い自分が嫌だったから」。

親は喜んで僕を塾に通わせてくれました。
が、
半年ほど通ったけど成績は全く伸びず。
しかも塾に行く日は朝から憂鬱で行く直前になると
腹が痛むというヘタレぶりでしたね。
生徒数が多い塾で3校くらいから生徒が集まってて、
クラスもAとBに分かれてて、もちろん僕はB。
小テストの結果でも壁に張り出されて、いつも自分の名前は
下位の方に記されてました。

5年生が終わるとすぐに辞めました。
最後まで馴染めず。成績伸びず。
ますます勉強が嫌いになりましたね。
この時点で通知表は図工と体育以外は2と3だけですからね。
覚えておいて下さいよ。

さぁ、6年生になりました。
仲の良い友達が近所の別の塾に通ってたんです。
彼も僕に負けないバカでしたね。
ところが彼から聞いたその塾の話しに、僕のアンテナが反応します。

「授業が終わったら、先生がお好み焼き食べに連れてってくれるで。」
「授業中に寝とっても毛布掛けてくれるで。」
「この前、先生が作ったケーキ食べながら授業したで。」

懲りずに親を口説き、家からすぐ近所の塾に通い始めました。
今度は前回と違い、小さな小さな家庭塾です。
当時、50代の女の先生が1人でやってました。
生徒数も10人足らず。
普通の狭い狭い家なんですよ。2階建ての小さな家。

日によってはカレーの匂いとかしててね。授業中に先生が、
「あっ、鍋の火いれっぱなしやわ。ちょっと待っとって。」
とか言いながら、キッチンまで走っていったり、
「え?外は雨なん?洗濯もん入れてくるわ。あんたらドリルやっとって。」
そんな感じです。

以前の塾とはノリが全く違うんです。
塾に行くのが楽しくて楽しくて仕方なかったですね。
塾に行く日じゃないのに、
みんなで先生の所に宿題持って行ってやってましたから。
先生の旦那さんが勤め先から帰って来たら、
「おお、みんなまだおるんか。お好み焼き行くぞ!!」
そう言って、近所のお好み焼き屋によく連れて行ってもらいましたね。
本当によくかわいがってくれたんです。
感謝。

6年生の1学期の終業式。
通知表を開くと.....
家庭科以外は全て5!!!!
ほんとに狂喜乱舞しましたよ。
5年生の3学期は4すらなかったんですよ。
その僕がわずか数ヶ月で変身したんです。
親もびっくりしてましたね。

やっている事は同じ勉強。やっているのも同じ僕。
でも環境が変わっただけで
激変したんです。忘れられない記憶です。

ちなみに中学生でまたアホに戻りますが。

■■■

この6年生の時の経験が、浪人時代に活きます。
何の目的も考えもなく浪人をして大学を目指した僕。
まさかいずれ、大学を中退するなんて思いもせずに、
予備校に通いながら浪人生活を過ごしておりました。

やはり予備校が馴染めなくてね。
授業中もグーグー寝てましたよ。
パチンコもよく行きました。

「このままじゃヤバいな...。なんか変えんと...。」
夏頃になると、自分でも焦ってきて、
何かアクションを起こさなければならないと感じていました。
模試の結果、行ける大学が無かったんですよね。あらら。

そこで思い出したのは小学校6年生の時に、
環境を変えた事で
わずか数ヶ月で成績が急上昇した記憶でした。

確か7月の終わり頃に、予備校の事務局に自ら出向き、
「ここにおったらいつまでも勉強出来んから辞めます」
って言うて辞めたんです。
予備校が悪いんや!!みたいな。(笑)
親には事後報告だったので、呆れられましたね。
とにかく環境を変えたかったんです。
環境を変えたら何とかなるんちゃうか?という希望だけはありました。

そこから自分で英語と日本史に絞って勉強しました。
2時間勉強したら1時間休憩。
休憩は音楽聞いたり、テレビ見たりしてましたね。
『朝は毎日1時間かけて英単語の音読。
月、水、金は英語中心。火、木、土は日本史中心。
日曜は気になる方をする。
その日、解けなかった問題は専用のノート(弱点ノート)にまとめ、
一日の終わりは必ずそれを見てから寝る。』

そんな日々を過ごして行くうちに、その年の11月に
推薦入試で一足早く合格させて頂きました。
7月の終わり時点で行ける大学の無かった僕がですよ。

でも実は9月頃に、部屋の窓から外をぼんやり眺めてて、
「俺........多分、受かる気がする。」
そんな事を思った記憶があります。
この頃には勉強が楽しくなってましたからね。

■■■

少年からおっさんになった僕。
12歳、19歳の時の自分に出来た事が、
今出来ないはずはないと思うのです。
仕事も含めた生活全般において停滞している事に関しては、
ぼちぼち環境を変えて、風向きを変えたいと思います。

でも待てよ。
12歳、19歳の自分には出来たけど、
おっさんになった現在では無理。
そんな事もあるかも。
ど、ど、どうしよう。
おっさん怖い。
# by citronkobe | 2012-03-05 23:50
『 恐怖 赤女(あかおんな) 』
今日は2つの異なる話を無理矢理1つにつなげます。

*****

「相田みつを」的な世界が大嫌いです。
大嫌い、大嫌い、大っ嫌い。

「いいじゃない。人間だもの」「ほら、笑顔の花が咲いているよ」
「感謝の涙が虹になる」
なんかこんなテイストのやつね。わかりますか?
これがディスプレイとして使用される場合は、
必ず筆による「書きなぐりテイスト」で表現されております。

相田みつをさん自体はいいんです。15年も前ですが著書を読んだ事もあります。
相田みつをでも無いのに、相田みつをが作った表現方法に相乗りして、
いや、パクって
「やわらかい事」や「当たり前の事」を声高々に謳ってる連中に殺意を覚えるんですわ。
たまに書いてる人間を路上でも見かけますね。
不思議と彼らの頭には、よくタオルが巻かれています。

居酒屋の店内やトイレで、これらの作品化された言葉に
遭遇する確率はなかなかのものがあります。
そして店の関係者の自筆による場合もありますね。

「ぽかぽか ぽかぽか 笑顔のたんぽぽ ほら ぽかぽか」

『頭に花でも咲いたんか?』
思わず声に出してしまいます。

「たくさん泣いたら きれいな朝日が きらきらして みえた」

『まぁ...涙目で見たらそうなるわな。』
ツっ込んだ後のこの脱力感よ。ああ脱力感よ。

「噓くさい」

それに尽きます。はい。
茶髪で眉毛を綺麗に手入れした、兄ちゃん姉ちゃん達が
切り盛りする店の空気感と、
「笑顔の輪」とか「ぽかぽか」とか「感謝の涙」
これらの言葉がまず合いません。少なくとも僕にはね。

「暴走天使参上」とか「極楽冥土喧嘩上等」と
書かれたフラッグに寄せ書きしてる方が、
ストライクで見ていて気持ち良いんですが。

テレビで某企業の朝礼を見て同じ感じを抱きました。
「笑顔」「感謝」「仲間」
そんなフレーズを端々に散りばめて、社員達が抱負や誓いを絶叫します。

絶叫してる彼らは仕方ないんですよ。
やらんと上の人間から言われるだろうし、それも仕事の一部ですからね。
僕も入社してたらやってますよ。やりますやります。やりますとも。

そんな一見、異様ともいえる朝礼を作った人間がね....
なんかやはり「嘘くさい」んですわ。

ヤンキーにしか見えん。ええ大人が先の尖った靴履いて、
眉毛を細く整えて、茶髪って...。

なんでしょ?
そのビジュアルと彼らの口から躊躇なく出る
「相田みつを」的フレーズとの乖離感は。
この白々しさは。

先程のフラッグに寄せ書きではありませんが、
このケースでは是非、こう言って僕をストライクな気分にさせてほしい。

「金!金!金!1円でも多く売ろうぜ!!金ぇぇええ!!!」

関係者よ。お願いです。
そう言って僕をすっきりさせて下さい。
あなた達の口から出たなら、
心のキャッチャーミットを微動だにせず、ど真ん中で受け止めます。
違和感ゼロです。合格。

*****

僕は10歳の頃に転校して鍵っ子になりました。
それまでの慣れた生活が一変しましたね。
友達も生活環境も全く変わりました。

でも子供ってかわいいもので、親に心配させたくないんですよ。
だから寂しくても「寂しい」とは言いませんでしたね。

友達もすぐに出来ましたが、
それまでとの遊び方が激変して、対応するまで時間がかかりました。
夜の7時8時まで遊んでいた生活から、
夕方の5時になったらみんなが家に帰ってしまうという生活に
変わりましたね。

「こいつらおもんないわ。」
転校当初は欲求不満でしたね。

そんな日がずっと続いて、最初の夏休み頃ですかね。
赤女(あかおんな)を初めて見たのは。

家族でどこかに出掛ける時に、
公園の中で奇妙な女性を見たんです。

夏なのに、真っ赤なコートを羽織り、
真っ赤なスカートを履き、真っ赤な靴を履き、
真っ赤な帽子を被り、真っ赤なカバンを持った女性です。

広島カープの選手ではありませんよ。
でも真っ赤でしたね。

「あの人、おかしいな。公園で見かけたら絶対に近づいたらアカンで。」

母親からそう言われました。
女性の雰囲気は30代くらい。
顔ははっきり見えませんでした。

その公園はいつも遊ぶエリアとは違う公園だったので、
遭遇する事は無いと思っていました。
実際、たまにその公園で遊んでも見かける事はありませんでしたし。
ありませんでしたが...。

雨が降る少し寒い2学期の帰り道。
文房具屋に用事があって、
いつもとは違う帰り道を使う事になりました。
そこから冒険心で一人で遠回りをして帰ったんです。

「俺は強いねん。鍵っ子でも寂しくないぞ。」
その頃になるとすっかり、
親を心配させたくない思いが小さな強さになり、
気合いみたいなものが芽生えてました。
雨の中を家に向う僕の姿は、小さいながらも
1人で勇士を気取って
勇ましかったかもしれません。

恐怖の時間は突然訪れます。
例の公園の中を通っている最中、
砂場をふと見た瞬間に凍り付きました。

赤女が立っていたのです。

初めて見た時は家族と一緒でしたから、
気味悪さを感じても、
親がそばにいる安心感という盾がありました。

今日は一人です。
雨です。
恐怖をさらに煽るシチュエーションでしたね。
もちろん真っ赤な傘をさしていましたよ。

もう大急ぎで走って逃げましたよ。
どんだけ怖かったか。

息を切らせて家に着いたら、すぐに鍵を閉め、
窓に付いていたシャッターまで閉めました。
頭の中はパニック状態で、恐怖で泣いていました。
とりあえず母親に電話しました。
別に追いかけられてもないのに。

母親の声を聞いた瞬間、それまでの
「親に心配掛けない。俺は強い。一人でも平気だぞ。」
という、
「白々しい強がり」「噓くさい思い込み」
が一気に崩壊しました。

「寂しいから早く帰って来てぇー!!!!」

泣きながら泣きながら絶叫しましたね。
「寂しいから」
本音を大絶叫しました。

転校してからのストレスが
体の中から出た瞬間かもしれません。

記憶はそこで終わってます。

*****

赤いセーターを店内でたたみながら、
赤女を思い出す僕。
それとセットで10歳の雨の日の記憶が
脳裏に甦る。
(小説風)

やがてその記憶は、
冒頭の居酒屋や、某企業の朝礼に飛び火する。
(なんでやねん)

『お前ら。あの時の俺みたいに本音言わんかい!!
白々しいんじゃ。自分についとる嘘は永遠に嘘なんじゃ!!
金欲を笑顔とか感謝とかで表現するな!!』
勝手にイライラする僕。

あっ、あかんあかん。
「お前はどうやねん。」という
あげ足ハンターの指を鳴らす音が聞こえて来た。

失礼します。
# by citronkobe | 2012-02-18 16:28
『 あの時に手に入れたもの 』

更新日:2011/12/11/Wed
『 あの時に手に入れたもの 』

ネタは豊富なんですが、なかなかこちらのブログに手をつける時間が
ありませんでした。いきなり言い訳からのスタートですみません。
では、書かせて頂きます。

僕は遂に一度も就職をしないまま、現在に至りました。
フリーター畑を歩んで来たのです。
世の中のフリーターに対するイメージなんて良くないですよね。
自分自身がその視線を受ける側として生きてきたので、
よ〜く分かります。

写真屋で3年程働いていた時期があります。
デジタルカメラが普及する以前ですから、使い捨てカメラ等で写真を撮れば、
スピードプリントショップへ持って行きましたよね?
60分以内でプリントしてくれるアレです。
そこで写真を焼いておりました。
写真に何の興味もありませんでした。
金銭的、地理的、色んな条件上でそこを選んだだけです。

その3年間で体験した事は、僕の人生の大きな分岐点になりました。

多くのフリーターが親元に身を寄せながら、
お小遣い稼ぎを目的として働いていました。
そういうのは嫌いでした。大嫌いでした。

僕の場合は事情があり、親元には帰れませんでした。
一人暮らしをしながら生活の100%を自分の稼ぎで
何とかして暮らしていました。

最初の2年間は洗濯機の置けない部屋に住んでいたので、
2年間ずっと手洗いです。結構しんどいですよね。
そして自炊していました。格段に安くあがるんです。
疲れた体でコップを洗いながら、
当たり前の様に感じていた母親の仕事に対して、
頭が下がる思いでした。

職場には同世代の人達もたくさんいましたが、
「お前らとは違うんや。」
という強い思いがいつも心にありました。
休学→復学→学生結婚→即離婚→中退
フリーターに至るまでにそういう過程がありました。
他の人達のする話題が子供っぽく幼稚臭く思えてました。

「クリスマスを彼女と過ごすから休む」
「夏に海外に行くから休む」
「サークルの飲み会があるから休む」
そんな言葉を聞く度に、
「そのまま帰って来るな。クソガキが。」
と本気で思っていました。

お金を稼ぐために正月から大晦日まで、シフト上可能な日は
全て入れてもらって働きまくってました。
2年目から2店舗のうちの小さい方の店長になりました。
正社員ではありませんが契約社員という形です。
今思えば、これが就職に一番近づいた瞬間かもしれません。

同じ年齢の大学生や、1、2歳年下のフリーター、大学生を
指示する立場になりました。
全国展開するチェーン店だったので基本マニュアルがあります。
それを徹底するのはもちろんですが、
現場ではマニュアル通りに行かない場合の方が多い事を学びました。
「結局は自分でどうするか」
ストレスを伴いながらそんな場面に晒される機会が増えました。

他の連中が、
「自分には何が向いてるやろ?」
「自分は何をして食べて行こ?」
そんな感じで『 What 』を探している時に、

僕は、
「自分はどのように売上げを増やそう?」
「自分はどのようにスタッフを意思統一して行こう?」
「現場がどのようになればミスが減るのか?」
つまり、『 How 』を探していました。
そうして行くうちに、
自分の生きて行くヒントを掴みました。

『 どのように 』を探して行くと、楽しくなっていくのです。

写真なんて興味もない僕が、写真屋という現場で
掴んだ感覚ですから、説得力があるかもしれませんね。

「出来れば自分ひとりで」
「自分の責任で決める事が出来て」
「年下よりも年上の人が多い環境で」
「自分に胸を張れる瞬間があって」
「海外の空気がどこかにあるように」
「気の合う仲間だけで」
「笑いの要素が必ずあって」
「気取っている奴らの軽薄さとは無縁の」
etc...

自分が反応する様々な「How」を辿って行くと、
「俺は何やっててもエエねん。自分のHowポイントを押さえてたらエエねん。
Howの部分が満たされてたらハッピーやねん。」
という考えに到達しました。

写真屋の3年間の後は、
「日中は外資系の会社で働き、晩はビル清掃」
という暮らしを4年半しました。

その4年半の暮らしも「How」に基づき選んだものでした。
だからストレスらしいストレスがほぼ皆無でした。
その4年半が3年間の写真屋生活で掴んだ感覚を
確信に変えてくれた気がします。

『 What 』を探すより『 How 』を探す方が人生前に進む!!

これが他の人にも当てはまるなんて思いませんよ。
あくまでも僕が見つけた自分への最良の言葉です。
でも、そのお陰で物事に対して基本的に迷わなくなりました。

もしも、タイムマシーンに乗って過去に戻れるなら、
写真を焼いていた頃の僕に会ってこう伝えたいのです。

「おう!俺は未来のお前。やっぱり『どのように』が大事やわ。
写真屋の後は、外資系の会社とビル清掃の掛け持ちするで。
でもストレスゼロやわ。「What」より「How」で選んだからな。
まっ、心配するな。何とかここままで生きてるから。」

未来の僕を見て、若い頃の僕は言います。
「あの〜、未来の僕に、お金はたくさんありますか?」

僕は答えます。
「あっ、あ〜、もう未来へ帰る時間やわ。また今度な。アディオス!!」

エネルギーに満ち溢れた若者が萎える様な真実は、やっぱり言えんわ〜。(笑)

# by citronkobe | 2012-01-15 13:43
『 内山先生とT君 』

高校2年生の時。僕が17歳の時の話しです。

T君という友達がいました。中学3年生で同じクラスになり、
すぐに仲良くなり、高校も同じ高校へ。
文系と理系に分かれる高校2年生の直前に、選択科目を2人で揃えて
同じクラスになりました。席替えもいつもズルをして隣同士です。

部活に没頭していた僕と、帰宅部で恋愛に夢中だったT君。
そんな僕達に強力なサポーターがいました。
クラスの担任であり、日本史を教える内山先生です。
ウッチーこと内山大先生です。

T君が晩の10時頃に制服姿のまま、近所の女子校の子と抱き合う様に
バスの車内でキスしていた頃、同じ車内の一番後ろの席で帰宅途中の
内山先生がニヤニヤとそれを見ている。

そして翌日の授業中に、
「おい、T。俺が前に見た子と違うやん。キスの味も違うか。」と。
T君がそんな時間にウロウロしてる事なんて注意すらしないのです。
「もうすぐ冬や。抱き合って温めあったらよろしい。」
クラス中、大爆笑です。

「遊び・恋愛に励みたい」
そんなT君なりの17歳の気持ちを咎めるのではなく見守る。
見守りはするが柵は超えさせない。
そんな内山先生独特の間合いの様なもので、
T君との信頼関係が出来ていました。

一方、僕は部活に励みすぎていて勉強を全くしておりませんでした。
成績も文系の最下位なのです。
授業は出ずに部活だけしに学校へ行く。
授業への出席日数が足りなくて、しかもテストの結果も芳しくない。

進級が難しい生徒に限り、親が学校側に呼ばれるのですが、
もちろんその対象になりました。
1年生の時は、当時の担任から息子の事を問題児の様に
言われたため、1年前のトラウマを抱えたまま
母親は体を小さくして学校に出向きました。

しかし帰って来た母親から聞かされた言葉は意外なものでした。

「あの子は大丈夫です。大体、部活してる時にあんなに目が
キラキラしてる子は大丈夫なんです。進級テストも受かります。
担任として何の心配もしてません。」

内山先生から、そう言われたんだと。
嬉しさと感謝の気持ちで心が満たされました。

『大好きな人から俺は信頼されている。』

17歳の脆弱で不安定な心に、
1本の太い芯が通った瞬間でもありました。
自分への自信にもなりました。

信頼を背に進級テストをパスし、無事に終業式を迎えた日。
突然の別れがやって来ました。

内山先生がいつもとは全く違う厳しい表情で、

「 Tが学校を辞める事になった。ここ最近学校には来てなかったけど、
しばらく学校を離れて病気の治療に専念する事になった。」

あまりに突然の事でクラス中がどよめきました。
本当の理由を知る僕以外は。

3学期に入ってから地元の暴走族とトラブルを起こしたT君は、
自宅にまでその嫌がらせが及び、警察が絡むほどの
事件に巻き込まれていたのです。Tを待ち伏せする数人を、
学校周辺でも見かける事が増えていました。

T君は僕とだけは連絡を取り合っていました。

今は神戸にいない事。彼女がそばにいる事。母親がノイローゼになった事。
内山先生の指示でどこに身を寄せているかは僕にも言えない事。

最初の頃の「早く学校に戻りたい」という言葉から、
最後の頃の「もうアカンかもしらん」という泣きそうな声。
Tは電話越しの僕に、ありのままの本心を見せていました。

終業式の日。
最後のホームルームが終わり、帰り支度で騒がしい教室の中、
涙をこらえる僕に内山先生が近づいて来ました。
そして、僕の隣にあるT君の机を指差して、

「お前がこれを片付けたってくれるか」と。

「はい。」と行って立ち上がった僕の耳元で
内山先生が小さな声でこう言いました。

「お前には悪い事したな。すまんな。」と。

T君を学校に戻せなかった事を僕に詫びるのです。
僕にしか聞こえない声で。
内山先生と僕にしか、わかり得ない会話でした。

T君の机を音楽準備室に運び、その落書きだらけの机を眺めた後、
T君の下駄箱の掃除をしました。
かかとの潰れたT君の上履きを上履き袋にしまい、
雑巾で彼の下駄箱の中を拭きながら思い出したのは、
中学3年生の冬、最後の進路相談が終わった後に

「一緒の高校や!!一緒の高校受けれるねん!!」と、
受験する学校が既に決定していた僕に、
満面の笑みを見せたT君の笑顔でした。

高校3年生になったある日、
もう他のクラスの担任となってしまった内山先生と
廊下ですれ違う時、

「こんちは。」
と、頭を少し下げた僕の坊主頭を、
手にしていたエンジ色の日本史の教科書で
パタンと軽く叩いて笑みを浮かべながら、
何も言わずに通り過ぎた内山先生。

信頼関係のある僕には、
それだけで充分なのでした。
頭を叩かれて嬉しいと思わせる先生なんて
後にも先にも内山先生しかいませんでした。

長い年月を経て、今初めて感じる事があります。
17歳の僕は、当時の内山先生に
「カッコいい大人」の姿を見ていたのかもしれません。

「カッコつけていないのにカッコいい」

これ以上のカッコ良さはないんだと思います。
えっ?違うかな。
# by citronkobe | 2011-12-11 13:12
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